亀倉雄策Yusaku Kamekura
戦後日本グラフィックの父。新潟生まれ、新建築工芸学院 (Bauhaus 系) 出身。1964 東京オリンピックの VI 設計で国際的評価を確立。Nikon、NTT、明治製菓などの企業マークを多数設計し、「アイデンティティ・デザイン」を日本に定着させた。
日本のデザインは、
「装飾」の伝統と
「構造」の近代が、
瓦礫の上で出会った場所から始まった。 — 田中一光、1985
戦後日本グラフィックの公式の出発点は、1964 年東京オリンピックである。亀倉雄策が制作したシンボルマーク(日の丸+五輪)と公式ポスターは、敗戦から復興した日本が「デザインを国家のブランディング装置として行使した」最初の事例だった。
亀倉率いる委員会には田中一光、永井一正、勝井三雄、杉浦康平、勝見勝が参集し、ピクトグラム、競技種目別ポスター、印刷物、書体、サインシステムを 総合的に 設計。この経験が、戦後日本グラフィックの方法論と人材ネットワークの礎を築いた。
★ Tokyo 1964 ★ Sapporo 1972 ★ Osaka 1970 ★日本のグラフィックデザインは、二つの伝統の上に立っている。一つは 装飾の系譜 —— 浮世絵、琳派、紋様、家紋。もう一つは 構造の系譜 —— 戦後輸入された Bauhaus と Swiss Style。これら二つが融合せず、衝突したまま並走するところに、日本のグラフィックの個性がある。
1953 年、日本宣伝美術会 (日宣美) 設立。亀倉雄策、河野鷹思、原弘、伊藤憲治、早川良雄、山城隆一、勝井三雄、田中一光、永井一正らが集まり、戦前の図案家・図案部出身者と戦後留学組が同じテーブルで議論した。1960 年に「世界デザイン会議」を東京で開催し、日本は国際舞台へ躍り出る。
1970 年代以降、横尾忠則、粟津潔、宇野亜喜良が サイケデリック・カウンターカルチャー を持ち込み、杉浦康平が 東洋的ブックデザイン を切り拓いた。1980 年代以降は浅葉克己、佐藤晃一、葛西薫、佐藤可士和へと系譜が伸びる。
戦後日本グラフィックの父。新潟生まれ、新建築工芸学院 (Bauhaus 系) 出身。1964 東京オリンピックの VI 設計で国際的評価を確立。Nikon、NTT、明治製菓などの企業マークを多数設計し、「アイデンティティ・デザイン」を日本に定着させた。
兵庫県西脇生まれ。神戸新聞社、日本デザインセンターを経て独立。状況劇場、寺山修司、三島由紀夫らと交わり、サイケデリック × 浮世絵 × アングラ演劇の独自世界を確立。1981 年に画家宣言、現代美術へ越境した稀有な存在。
奈良生まれ、京都市立美術専門学校卒。1959 年田中一光デザイン室設立。能・歌舞伎・日本舞踊のポスターで日本の伝統美を幾何学的に再構築。無印良品 (1980) のアートディレクターとして、日本独自の「無装飾の装飾」を世界に示した。
東京芸大建築科卒。ULM 造形大学客員教授を経て、ブックデザインの巨人へ。『遊』『季刊銀花』、全宇宙誌、ダイアグラム本。マンダラと情報設計を融合した宇宙論的グラフィックは世界に類例なし。
大阪生まれ、東京芸大彫刻科卒。日本デザインセンター創立メンバー。札幌冬季オリンピック (1972) のシンボル設計、その後動植物をモチーフにした幾何学ポスターで世界的評価。86 歳の現在も現役。
東京生まれ、独学。今村昌平・大島渚・寺山修司の映画ポスター、白石加代子の演劇ポスター、ダム工事写真集など、メインカルチャーから外れた領域で日本のヴァナキュラーな図像を発掘・継承した。
能、茶室、水墨画。日本のデザインは「描かないこと」を最も雄弁な表現とする。田中一光の能ポスター、亀倉の Nikon マーク。空白こそが主役。
逆に密度の極北を描いた人々もいる。横尾忠則のサイケポスター、粟津潔の切り絵、杉浦康平の曼荼羅。情報を詰め込み、画面を呼吸できないほど満たす。
欧文デザインの方法論をそのままでは適用できない、漢字 + ひらがな + カタカナ + 欧文の四文字種混植。これが日本タイポグラフィの宿命にして個性。
日の丸の構図のように、画面の中央に「何もない」を据える勇気。亀倉、田中、永井が極めた美学。
横尾、粟津、宇野亜喜良。アングラ演劇とサブカルが描いた密度の極致は世界のサイケに先行した。
杉浦康平が確立した、ページを宇宙模型として設計する方法。情報密度の知的処理は世界水準。
漢字・ひらがな・カタカナ・欧文を 1 行に混在させる宿命。これが世界に類を見ないタイポグラフィの独自性を生んだ。
亀倉ら 7 名が結成、戦後グラフィックの中心組織。年次公募展「日宣美展」が若手の登竜門となった。1970 年学園紛争の余波で解散したが、その人材ネットワークが現在の JAGDA まで続く。
亀倉、原弘、永井ら 8 名が創設。トヨタ、日産、東芝、新日鐵などの統一広告・CI を担当した最初の総合デザイン会社。後に独立する田中、横尾、杉浦らも一時在籍。
日本グラフィックデザイナー協会。会員 3,000 名超で世界最大規模。亀倉雄策が初代会長。年鑑、年次賞、教育活動を通じ、日本グラフィックを国民文化として下支え。
戦後日本グラフィックが世界に手渡したものは、「異質な伝統と異質な近代を、融合せずに同居させる方法」である。Swiss Style のようにすべてを Helvetica と直線で統一することは、日本ではついに起きなかった。むしろ亀倉の合理性と横尾のサイケが共存し、田中の余白と杉浦の密度が並走する状態が、日本の正常な姿である。
世界が日本グラフィックを発見したのは 1980 年代。Pentagram の Alan Fletcher、Stefan Sagmeister、Massimo Vignelli らが揃って日本の出版物・ポスターを「最高水準」と認め、AGI の日本人会員数は他国を圧倒した。無印良品 の田中一光、原研哉が世界的成功を収めると、欧米のミニマリズム言説は完全に日本的余白論を取り込んだ。
21 世紀の現在、佐藤可士和、原研哉、葛西薫、長嶋りかこ、菊地敦己らが系譜を継承しつつ、新しい世代 (色部義昭、北川一成、岡本健、原田祐馬) が 地方・コミュニティ・福祉 といった新しい文脈にデザインを開いている。世界の他のどの国よりも豊かに分岐し続ける、それが日本のグラフィックデザインの現在地である。