Henryk Tomaszewski
派の事実上の創始者。ワルシャワ美術アカデミー教授として 50 年間教鞭をとり、Cieslewicz、Starowieyski、Świerzy ら次世代を育てた。手描き、簡略化、ユーモア、メタファー —— 派の DNA はすべて彼から始まる。
ポスターは絵画である。
商業の道具ではなく、
美術館の壁にかけられるべき作品だ。 — Henryk Tomaszewski, 1955
1945 年、第二次大戦で人口の 2 割を失い、首都ワルシャワは 80% が瓦礫と化した国。1948 年から共産党政権下、ソ連の影響下でありながら、文化政策では奇跡的に独自路線を歩んだ。それが Polska Szkoła Plakatu(ポーランド・ポスター派)と呼ばれる、世界に類を見ない国家規模のポスター運動である。
1956 年の「ポーランドの 10 月」(雪解け)以降、政府は文化娯楽 —— 演劇、映画、サーカス、ジャズ —— のポスターを国家事業として大量発注した。広告ではなく文化案内として。商業的成功は問われない。デザイナーは絵画的・実験的・象徴的な手法を駆使し、ポスターは美術館の所蔵品となった。
ワルシャワ国際ポスター・ビエンナーレ (1966 年〜) と、世界初のポスター美術館 (1968 年、Wilanów) は、この運動の世界的中心となり、ロンドン、パリ、東京、ニューヨークの若いデザイナーに決定的な影響を与えた。
派の事実上の創始者。ワルシャワ美術アカデミー教授として 50 年間教鞭をとり、Cieslewicz、Starowieyski、Świerzy ら次世代を育てた。手描き、簡略化、ユーモア、メタファー —— 派の DNA はすべて彼から始まる。
象徴的・夢幻的な人物・動物のシルエットを切り絵のように配置する手法。Wozzeck、Ubu Roi のオペラポスターは派の代表作。後にアニメーション映画も制作し、グラフィックと映像の境界を消した。
太い筆致、強烈な原色、平面的構図。映画ポスター 400 点以上。Disney、ゴッドファーザーまでポーランド版は彼の手で完全別物に変えられた。彼の手にかかると Hollywood すらシュールになる。
1963 年にパリに移り、フランスのポスター・編集デザインを革新した。フォトモンタージュと幾何学を融合。Elle 誌、Opus International のアートディレクター。派の国際大使。
ジャズと演劇の肖像ポスターの巨匠。Coltrane、Hendrix、Joplin の絵画的肖像はジャケットを超えて芸術品となった。生涯ポスター 2,500 点以上を制作。
解剖図、骸骨、内臓、不気味な肉体。バロックと現代美術が交わるダーク・シュール。映画ポスター《Belle de Jour》の異形版は派の極北。常に「1685 年生まれ」と署名するエクセントリック。
派のメンバーの大半は絵画科出身。ポスターを「壁に貼る絵画」として扱い、油彩、水彩、版画、コラージュをそのまま大判印刷に持ち込む。商業デザインのドライさと無縁。
ハリウッド映画のスチル写真をそのまま使うことを拒否。映画の 主題 を描き直す。Star Wars のポーランド版、Casablanca のポーランド版は別物の象徴的絵画になっている。
タイポグラフィは手書き、絵画の一部として描き込まれる。ヘルベチカも Akzidenz もここでは使われない。文字と図像が分離せず、1 枚の絵として成立する。
ポスターを絵画作品として扱う。画用紙、油彩、版画 —— 手の痕跡を残し、印刷で再現する。
主題を直接描かず、隣接する象徴で置換する。Hamlet を「目」で、Wozzeck を「眼鏡」で、戦争を「靴」で。
国営委託のため、売上を考えなくてよかった。商品ではなく作品としてのポスター。これは資本主義圏の同時代に存在しなかった条件。
ナチス・ソ連占領を経験した世代の精神。明るい色面の中に死、性、不安が潜む。笑いと恐怖が同居する独特の手触り。
Tomaszewski の教室を中心に、派の全世代を輩出した教育機関。ポスター学科は世界初。学生は最初の 2 年間、絵画と版画を徹底的に学ぶ。
国営映画配給公社。年間数百枚の映画ポスターを発注し、ハリウッド映画にも独自のポーランド版ポスターを描かせた。これが派の経済基盤だった。
世界初のポスター専門美術館。Wilanów 宮殿の翼に置かれ、現在 60,000 点以上のポスターを所蔵。世界中の研究者がここに巡礼する。
ポーランド・ポスター派が世界に手渡したものは、「商業デザインは絵画と同じ密度を持てる」という証明だった。それまでヨーロッパで、ポスターは商品か政治宣伝に過ぎなかった。派は 30 年かけて、ポスターを 美術館の主役 に押し上げた。
派の影響は地理的にも世代的にも広い。Milton Glaser の Dylan ポスター、横尾忠則の演劇ポスター、Saul Bass の映画ポスターの一部 —— いずれもポーランド経由の手触りを共有している。1970 年代以降、東京 ADC、AGI、Brno Biennale で派の作家が常連となり、戦後グラフィックの中心軸の一つを形成した。
1989 年、共産政権崩壊と共に国営委託システムは終焉した。派の最盛期も終わったが、それは皮肉にも 市場 が再び支配を取り戻したからである。今 Krakow や Warszawa の通りを歩くと、当時のポスターが古本屋やギャラリーで丁寧に額装され、絵画と同じ価格で売られている。