日の丸
白地に赤丸 ── 日本国旗の構成。亀倉のオリンピックポスター以来、最強のシンボルとして無数のデザインに使われた。
第二次大戦敗戦後、日本のグラフィックデザイン界は 亀倉雄策 ら戦前世代を中心に、急速に再建された。1951 年に 日本宣伝美術会 (日宣美)、1956 年に 東京アートディレクターズクラブ (ADC) が設立される。
1964 年の 東京オリンピック、1970 年の 大阪万国博覧会 という二つの国家プロジェクトが、日本のデザイナーに国際舞台での表現機会を与えた。亀倉のオリンピックポスター、勝見勝のピクトグラム体系 — 戦後日本が「敗戦国」から「文化国」へ転位する起点。
1960–80 年代、田中一光・横尾忠則・永井一正・福田繁雄・杉浦康平・浅葉克己 らが、それぞれ独自の方向で日本のグラフィックデザインを世界水準へ押し上げた。和の伝統 (浮世絵・書・能) と西欧のモダニズム (Bauhaus・Swiss) が混合し、世界のどこにもない視覚語彙が誕生した。
白地に赤丸 ── 日本国旗の構成。亀倉のオリンピックポスター以来、最強のシンボルとして無数のデザインに使われた。
毛筆の運筆そのものを画面に持ち込む。浅葉克己や杉浦康平が、書道家との共作で発展させた領域。
葛飾北斎・歌川広重の伝統。陰影を排した平面構成と独特の色面で、視覚に新しいリズムを与えた。
福田繁雄の十八番。「同じ絵が二つに見える」「形がメッセージを運ぶ」── 一瞬の認知反転を引き起こすトリック。
Bauhaus・Swiss の合理性と、和の感性の共存。両者を「混合する」のではなく「並置する」のが日本流の解だった。
能面・歌舞伎を幾何学に還元した連作《Nihon Buyo》(1981) で世界に名を知られた。Bauhaus の精神を和の伝統に注入し、無印良品の前身デザインへ繋がる。Issey Miyake のグラフィックも担当。
1965 年の自作ポスター《ジョン・シルバー》で衝撃的デビュー。日の丸、富士山、明治の絵看板、サイケ、ハリウッド ── あらゆる図像をコラージュし、戦後日本の集合的無意識を可視化した。
動物 (鳥・魚・獣) を象徴的に描いた連作《LIFE》で、日本ポスター史上最も知的な「環境ポスター」を残した。札幌オリンピック (1972) のロゴも担当。日宣美の長老的存在。
視覚遊戯の達人。「同じ画像が二人の人物に見える」「砲弾が銃身に逆向きに撃ち込まれる」── 一瞬の認知転倒で世界平和を語る《Victory 1945》(1975) はワルシャワビエンナーレ金賞。
日本初の戦後国家プロジェクト。亀倉雄策のロゴ (日の丸 + 五輪 + ゴールド) は、世界に「日本の現代性」を告げた象徴的作品となった。
同時に 勝見勝 主導で開発された ピクトグラムの体系 は、「言語に依存しない案内サイン」という発想で世界標準の起源を作った (Vol. 13 参照)。
テーマは「人類の進歩と調和」。岡本太郎《太陽の塔》、丹下健三《お祭り広場》、福田繁雄ら多数のデザイナーが参加した 戦後最大の文化的祝祭。
桜の花を象徴化した 大高猛 によるロゴは、テクノロジーと和の融合を象徴した。日本のグラフィックデザインが「国際的な創造力」として認知された決定的瞬間。
1990 年代に入ると、横尾的派手さから一転、原研哉 ら次世代が 引き算の美学 を打ち出した。1989 年に始まった 無印良品 の視覚言語は、田中一光の遺伝子を受け継ぎつつ、より深く沈黙する方向へ向かった。
2000 年代以降は 佐藤可士和 がブランドデザインの王道を、服部一成 が編集デザインの実験を、祖父江慎 が装幀の規格外路線を ── と各方向で日本グラフィックの第三世代が活躍する。
1960 年代に始まったこの黄金期の遺伝子は、Issey Miyake、Comme des Garçons、無印良品、Uniqlo ── 世界に通じる日本デザインの背骨を作り続けている。